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Posted by みやchan運営事務局 at

2011年07月25日

救援物資配布


文責:正木亮多

6時半起床。起きてから一分後にはラジオ体操している自分。



もちろん体が動くわけありません。隣の朝野さんにワンテンポ遅れてのラジオ体操でした!

今日一日は小学校から出て行かずに作業しました。作業内容は救援物資配布とそのための準備。




最初の救援物資配布では被災者に好きな物を持っていってもらうというシステム。それをボランティアが主になって動いて物資を配布するというシステムに変えたそう。でもそのために、ボランティアだけがずっと動いて被災者は何もせずにじっと待っているだけになってしまった。

そこを物資を配布していくのは被災者から募ったスタッフで、ボランティアはその準備やサポートだけと決めたそうです。それが大成功で、ピリピリしていた雰囲気は全くなくなり、穏やかに配布を終えることができたそうです。今日はこのシステムの2回目でした。



夕食後は中学生と一緒に勉強会。

当初は全く予定のなかったことですが、急遽家庭教師をすることになり、中2の男の子二人と夏休みの宿題をしました。お母さんには1時間程度でお願いしますねと言われましたが、中2の男の子が初対面の人と進んで一緒に勉強なんかするわけありませんよね(笑)。

勉強は10分ぐらいで終わってあとはずっとおしゃべりを楽しんでいました。少しでも壁を取り除けたらいいんだけどなあ。実際、僕は泥かきや瓦礫撤去などの力仕事より被災者と話しているほうが好きです。得意分野を生かして適材適所。多分明日もおんなじことしてると思います。


中学生と勉強会(勉強しているかどうかは置いといて)中に2回、震度3以上の揺れがありました。僕はほんまにめっちゃくちゃ怖かったです。避難所の人たちが怪我しないか、津波がまた来ないか、建物が崩壊しないか、そんなことが何回も頭の中を駆け巡りました。

ここの人たちはほぼ毎日地震と付き合っているんですよね。中2の子たちはまったく怖くなんかないと言っていました。強がっているのかな、本当にそう思っているのかな。

ん〜深いこと考えるのは明日にしよう!明日はOFFらしいのでこの辺の地域を見て回ることにします。車をゲットできれば車で、無理なら自転車で!

おやすみなさ〜い

正木亮多
  


Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:55Comments(0)

2011年07月24日

二人石巻市到着

投稿者:正木亮多

7月22日の夕方、宮崎を出発してから約1日と半日。24日午前、石巻に到着しました。



震災から約4ヶ月たった今も警察が信号が津波で壊れてしまったところでは、手信号で交通整理をしていました。



今日見かけたのは愛知県警。昨日は警視庁が来ていたそうです。4ヶ月間も毎日休まず交代で手信号を続けていると考えると本当に頭が下がります。

みなと小学校の校庭内にボランティアの本部があります。僕たち二人はまずここに行って側溝の泥かきの仕事を受けました。

たった数時間働いただけですが、足腰がもうパンパンガーンやる気はあるのになかなか体がついていかないですね〜ガーン

もうフラフラになりながら泥かきの作業を終えました。




車で被害に会った地域を見て回りました。
ぼく個人の印象としては、思っていたよりも家や工場などの瓦礫が片付いているなと感じました。車が通る道路は全く支障がない程度に片付いていました。ただ、大きな瓦礫は片付いていますが、側溝や家の中など細かいところにはまだまだボランティアの人出が必要だと思います。

ぼくたち二人だけでは小さな力しかありませんが、ほかのボランティアの人たちと力を合わせて、復興への着実にすすんで行けたら!と思います。

作業後は海上自衛隊が設置した簡易銭湯に行きました。



明々後日27日後に撤退(戦場でもないのに撤退という言葉が正しいのか)すると聞き、地元の方々がこれからどうしようと困っておられました。みなと小学校に設置している銭湯(希望の湯)はみなと小学校が避難所である限り続ける方針のようです。

明日からもよく働き、よく学び(こっちのほうが主)、よく遊ぼう(小学生と!)と思います。

眠い〜〜おつかれさまでした〜
以上文責;正木りょうた

以下文責;林こうた
2011.7.24         
宮崎からフェリーで大阪へ、そして夜行バスで仙台駅に到着しました。
そこから高速バスで石巻駅に到着して、事務局長の小玉さんが迎えにきました。

被災された水野さんと鈴木さんのご自宅を訪問させていただきました。
水野さんのご自宅は1階のほとんどが浸水しており、浸水した壁をはがす作業をされていました。
鈴木さんのご自宅も1階が浸水し、津波が迫ってきたときは2階に避難していたそうです。
被災された当時は、家の前の道路が流された家で埋め尽くされていたようです。
その中、わずかな隙間を通り抜けて避難所まで辿り着いたとおっしゃっていました。
鈴木さんの自宅では床屋を営んでおり、訪問させていただいた時はお客さんがいらしてました。被災されてから営業を再開されるまでの間、商売道具であるハサミを探すことから始め、ドロをかき出し、窓を綺麗に磨くなど順を追って再開までたどりついたようです。

鈴木さん宅で昼食を済ませたあと、避難所になっている湊小学校へ向かいました。
そこでは既に多くのボランティアの方々が活動をしており、海外から来られてる方も多かったようです。
昼過ぎに活動場所へ出向き、ドロの撤去作業をしました。ドロの中には津波によって打ち上げられた魚も混じっており、その地区全体から魚の腐ったような臭いがしていました。

今日初めて自分の目で被災された地を見ましたが、ニュースで観たときよりも道路が綺麗になっていることに驚きました。それと同時に、家の2階部分まで浸水した跡をみてさらに驚きました。道路は綺麗になってきてはいますが、復興まではまだまだです。これからも多くのボランティアを必要としていくと思います。多くの方々に協力して頂けるよう、たくさんのひとたちに今日感じたこと、これから感じることを伝えていきたいと感じました。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:36Comments(0)

2011年07月21日

福島大学の教授らの除染活動をサポート

この間、福島県内を中心に大学や公共施設でのシンポジュウムや勉強会に参加してきて、なかなかブログにアップできていませんが、取り急ぎ福島大学、京都精華大学、同志社大学の教授らに福島市民が共同で除染活動を今週からはじめました。
私も勉強しながら実践していくという事も兼ねて一緒に協力しています。


まずは、モデル1として福島市内の住宅地で調査実践
家の前のアスファルトや駐車場のコンクリートや庭などに分けて除染前と除染後の数値を計測していきました。写真は玄関前のアスファルトで実施
この日は、除染活動初日という事もありテレビ局やフリーランスの方などの取材もありました。


そのあと庭を除染前測定し草を刈り取る作業
手前が左から福島大学荒木田准教授、JIMnet佐藤事務局長、福島大学中里見教授。奥がTBSサンデーモーニングスタッフ今週の日曜日の朝は要チェック


コンクリートの上は農業用ネットに付着するように液体を塗り表面をはぎ取る作業。液体の種類を変えながら一番効果的に除染できるものを検証中
右手前が佐藤さん、右奥が京都精華大学細川教授


コンクリートをはがした後で放射線量を計測中

翌日はリンゴ畑やナシ畑をもつ農家の大内果樹園をたずね、リンゴの木の下を検証

写真にある2m×4mくらいの草を刈り表土を除去する
1.8マイクロシーベルトだったのが0.6マイクロシーベルトまで減少
ただし、集めた草を土嚢袋に圧縮すると4.3マイクロシーベルトとホットスポットになってしまう。
この放射線量の高い草や土を東京電力が引き取ってもらえないのであろうか

ここは大内さんの屋根の水が集約されている場所
大内さん宅での一番のホットスポットのようですが、とても近くに寄るべきでない数値が計測され写真にあるように30.99マイクロシーベルト。前回のブログで紹介したCPM計測が飯館村の610の約2倍が計測され1170CPM急きょビニールを交換し手袋を交換し、たびたび緊迫した状況に直面する


この日は計測班にまわるJIMnet佐藤さん(左)と同志社大学和田教授(右)
和田教授はとてもユーモラスのある一面と、子ども達を本気で放射能から守ろうと政府交渉で涙を流しながら訴えるヒーロー的一面を持ち合わせる後日談がありますが、ここでは省略します。

2日間の除染活動に合流して
とにかく、初日は快晴ということもあり、佐藤さんも私も日焼けをしながら、Tシャツを何度も着替えながらと、かなりの体力作業
集めた草や土をどう処分するのかも課題は山積しているが、知恵を絞って東京電力や東京都、政府にも提案して行く必要があると感じました。
重ねて感じたのが、放射線を除染したときに集められた草や土が放射線量は1.8μSv/hのままと思っていたが、2.3倍の4.3μSv/hに上昇した。
つまり、県当局が推奨する高圧洗浄では新たなホットスポットが生まれ、そこで子ども達が被ばくする事になる。

そして、どこが放射能数値が高いかは計測しないとわからず、ホットスポットになっている近くを小学生が遊んでいたり、通学したり。
避難するかどうかは市民が判断する事だが、子ども達がここに居続ける事のリスクを早く市民に伝え判断材料の一つにしなければ。

今日話した別のおばあちゃんは、見えないし臭わないので知らなければ普通に生活できる。しかし、知ったら怖くなる。避難した方がいいの?2才の孫は大丈夫?いずれ寿命が来るけどガンで痛い思いをしながら闘病生活は嫌だ!東電は保証してくれるの?
40年前に酒を飲みながら「福島もやられっぞ~」って冗談言ってたけど•••
質問が矢継ぎ早に寄せられる。

喫緊の課題が山積している福島でした
文責:小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:55Comments(2)

2011年07月17日

いよいよ福島入り!

東日本大震災の被害が甚大だった、岩手、宮城、福島の東北3県のなかでも支援が最も少ない福島県。
放射能の影響があり、支援に入っているボランティアの数もNGOやNPOの団体数も極端に少ない。

これまでイラクで劣化ウラン弾の被害にあった子どもたちを支援して来たJIMnetの佐藤真紀さんと石巻で再会。JIMnetの応援要請に応えて福島支援を開始します。

放射能という見えない、臭わない、痛みがないもの。
初めての福島入りに緊張感をもって車を走らせた。



この放射能計測器はベクレルやマイクロシーベルトを直接計測する物ではなく、放射能の一定の濃度をカウントしていき、一分間にどれぐらい計測できるかを見てCPM(カウント•パー•ミニッツ)を計測していきます。

東京で15cpm~20cpmだった計測器が東北道を北上する中、少しずつ上がり始める。
このサービスエリアでは30cpmしかし、隣接する公園のベンチの上で計測すると62cpmで東京の約3倍に上がる。



郡山JCTジャンクション付近を走行中の車の中で75cpm車外はもっと高いことが想像できる

mg

福島のPAパーキングエリア近くでは111cpmを計測し徐々に緊張感が高まる

このあと福島市に到着し
福島県庁の災害対策本部で情報収集し
福島大学ボランティアセンターでサマーキャンプの概要などを
鈴木教授と4年生の航くんと打ち合わせをしてきました(写真)



放射能の数値は東京の5倍前後で計測され、マスクをして移動するよう心がけていましたが、福島大学でマスクをしている人がほとんど見当たらず、4ヶ月の間に慣れてしまい危機感が薄れている状況に驚きました。

文責:なおや  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 21:28Comments(0)

2011年07月15日

灼熱の石巻

この日は日赤の臨時診療所を紹介します。
石巻市立湊小学校で避難している方は震災当初の1400人から月日とともに少しずつ減少し、先月から仮設住宅への入居も進みいよいよ200人をきってきました。

そんな中、2階の家庭科室で数ヶ月間臨時診療所が運営されていて話を聞きました。
交代制で全国の病院から応援に駆けつけ、この日は福井大学病院からドクター2人と看護士2人ほか1人で診療にあたる。


私たちが南三陸町や石巻市で取り組んで来たボランティアの内容を話すと、医療行為以外の話があまり聞けないらしく興味津々で耳を傾けてもらいました。

私事ですが、1年半まえの新型インフルエンザが猛威を震い国内では200名以上、私の住んでいる宮崎でも5名の方が命を落としました。
その際、私も新型インフルエンザから肺炎が悪化していき43度の熱がつづきました。

救急車で国立東病院に運ばれたものの数値が悪化して、3時間後に再び救急車で宮崎大学附属病院ICUに運ばれる。
そこから3週間意識不明でドクターが家族全員呼び年末に「直也さんはステロイドを投与しても反応無く数値が悪化の一途をたどっているので、あと数日の命でしょう。ご家族は覚悟してください」と告げられた。



そこから奇跡的に生き返り今日に至るのですが、その宮崎大学病院から石巻市湊小学校へメッセージが届いていて、苦しかったリハビリの日々を思い出し、かろうじて生き返った私が、被災地で大学病院からのメッセージを一つひとつ読みながら、また涙がとまらない。


この日は灼熱の太陽が照りつけ、熱中症に気をつけるよう医療従事者にもほどこされる。
体育館で夕食のみそ汁を作っていた方達が熱中症対策で水を浴びていた。


彼はパキスタンから来たアジス
前回来た時もいたので、結構長く張り付いている。



そして先週誕生日だった、りょうさんも屋外シャワーを待ち受けていた。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 02:16Comments(0)

2011年07月14日

石巻市湊1丁目の鈴木理容

湊小学校に避難中の鈴木さんを紹介します。
こないだ報告会に来てもらったり、インターネット生放送をご覧になった方はご存知かもしれませんが、湊1丁目で理容業を営んでいた鈴木さんです。
もし報告会をご覧になりたい場合は、下記ホームページから右上の「生放送および録画を見る」をクリックしてもらえればいつでもご覧になりますよ。
http://www.npomiyazaki.com
湊小学校から歩いて5分くらいの位置で理容業を営む鈴木さん
写真の場所で理容業を営んでいました。しかし天井まで津波が押し寄せ、写真の奥さんと2階に避難して難を逃れました。
近所の人達からの希望が多く理容業を仮オープンしたものの、天井がはがれたままで痛々しい傷跡が•••

この日はたまたま、以前の常連さんが来て「オープンするのを待っていたよ」って震災当時の状況をお互い語りあいながら涙する場面もあり憩いの場がまた一つ増えたように感じました。
写真の時計は震災直後の津波が来た時間で止まったのでしょう。

こちらの写真は白い壁に津波のあとがうっすら残っていました
鈴木さん宅から数分行くと中州がありそこで指差し説明する

ん??
なにがあるのか遠目にわからない

近くまで行くと自由の女神
腹部が損傷し甚大な被害をうけてるが倒れず立ち続ける
石巻も津波で甚大な被害を受ける中、一人ひとりが必死で立ち続け前に向いて歩き始めているそんなシンボルに重ねてまた涙する

建物などと違って電柱は抵抗を受けにくいのに根元から簡単に折れ曲がっている
人間が10人で押しても20人で押しても、このようにはならない。津波のエネルギーの大きさをまた痛感する。

この鈴木さんが語った湊小学校の3日間は涙なしには聞けない話です。
湊小学校に避難した1400人、最初の2日は食料も飲料もなく、ペットボトルを見つけ紙コップに1cmずつ分け与え必死で励まし合ったが救援物資が届かない
子どもや老人から衰弱していく
老人が昔わき水が出ていた話をしてその場所を男性が決死隊をつくり探しにいく
ヘドロを分け、遺体を分け、瓦礫をわけながら到着した所で水が湧いていた
ペットボトルに水を補給しながら、
これでまだ1400人死ななくてもいい。
助かるかもしれない。

そのときの状況を想像して、また涙する。
みなさん。忘れないで。
被災地では、まだまだ必死で生きているんです。

宮崎からもボランティアを送り出しているので、ぜひホームページの活動支援金のご協力をよろしくお願いします。

文責:なおや  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:06Comments(0)

2011年07月11日

続:市町村合併の弊害をうけた雄勝町

この日、案内してくれたのは雄勝町で震災前日まで漁師をしていた早坂さん。
3月11日の津波で所有していた漁船2艘を失い、現在石巻市大原地区に建設された仮設住宅に避難中です。前日、山形からの希望の湯で一緒になり意気投合、そのあと一緒に夕食を食べて、翌朝から早坂さんが住んでいた町を案内してもらえることに。

そこに私の家があったけど流されてしまった
地震のあとみんなで声をかけて逃げろ逃げろと声かけ、この丘に上がった
目の前で自宅が流されていったんだ〜
自分の家だけでなく、周辺の家がみんなながされ、波がきたときはモコモコと右の方に上がっていき、引き波ではドーッと音を立ててすごい勢いで海の方に左へ流れていったかと思えば、次の波でまた右へ左へと繰り返しながら辛かったです。
今度は高い所に建てたいケド、土地も少ないし、みんな高い所がいいって言っているかなね。

早坂さん宅跡地右手前の陰になっている所に家があったそうです。
仏壇も何もかにも流されて…

前記事で投稿した通り平成の大合併で石巻市に統合された雄勝町は支援の手がなかなか届かない。

この日は雄勝町で漁師をやっている中里さん(51)宅にうかがう。
この日は男たちが津波に負けなかった天然ワカメを収穫し、女たちがそれを出荷できるように作業する。ちょうど漁師町の女性たちの笑顔と話が聞けたので、写真を紹介します。
  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 13:36Comments(0)

2011年07月10日

石巻市は一歩ずつ前へ!

3度目の石巻市
被災地での復興が少しずつ変わっていく
国道沿いのミスタードーナツは未だ閉店したままの状態、その信号を右折すると驚く光景が目に飛び込む。
消えたままだった信号が点灯していた。その横の石巻郵便局も閉店したままだったが、日曜日なのに中の電気がついていて仕分け作業をしている。
100m進むと100円均一のSeriaが今日震災から115日ぶりにオープンでにぎわっていた。
子どもを連れた30代女性に聞くと「被災地の中で少しずつ身近なものが買える店が復活すると助かります」

向かいのセブンイレブンもずっと閉店したままだったが、オープンしている。
少しずつだが、復興の灯りがともっていく。
しかし、あと200m進むとあいかわらず、信号が消えたまま警察官が4ヶ月目も手信号で頑張っていた。


翌朝、仮設住宅で生活している早坂さんの案内で雄勝町へ
ここは、市町村合併の弊害が如実に出ていて復興にまだまだ時間がかかる様子だ。
石巻市役所から2時間ほど走ったところに早坂さんの自宅はある。
もともとは雄勝町役場があったのだが、合併したので石巻市役所に統合される。
雄勝町役場前の救急車

元役場周辺はまだまだ復興に時間がかかりそう。
もし、合併していなければ、雄勝町の復興はここが起点になり役場周辺にボランティアセンターが立ち上がり、雄勝町に多くのボランティアが派遣されていくんだろうなあと感じる。
石巻市からの距離があるが、合併したので石巻市社協ボランティアセンターから派遣される事になる。

消防車の後ろが元雄勝町役場
この役場で以前まで働いていた中里さんに話を聞いた
「この周辺でも多くの人が流されなくなってしまった。津波警報は出されていたけど、あんなに大きな津波はだれも予想しなかった。もう少し警戒しておけば助けられた命は多かったと思う。私の家は流されたけど、女房は警報に気づき裏の山に必死に上っていって助かった」

写真は中里さん隣の家、中里さんの家は跡形も無く土台だけ残されていました


市町村合併の弊害と津波の危険性への意識をあらためて感じました。

文責小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:25Comments(0)

2011年07月09日

7月3日 小玉直也3度目の石巻市到着

3.11の大震災直後、配信されたショッキングな映像を宮崎で見ながら、なにか自分にできる事はないか
そう問い続けて、一度は仕事の都合をつけて支援に入ろうと思ってた。
ゴールデンウィークに駆けつけ散々たる状況。

仕事も職場もうばわれ、購入したばかりのノーンが残ったマイカーが津波で流されどこにあるかもわからず、家が流され、最愛の家族や友人知人が奪われた方々の涙を目の当たりにした。
一度だけの支援じゃ、どうにもこうにもならない。と2度目は5月22日から1週間。

そこであらためて涙する自分と向き合い。
今回、意を決して仕事を退職し、3度目の被災地入りは約100日。
私が無くすのは仕事だけ。
車も家も家族も残されている。
人生長いからなんとかなる。上を向いて前向きにあるいていこう。

中越沖地震でボランティアに駆けつけ柏崎から帰って始めた佐川急便も3年お世話になりました。


あとは、撮影の仕事もウェディングなどを別のカメラマンにお願いして、いってきます。
NPOみやざき災害救援センターの佐藤代表の妹さんのウエディングの撮影で10月23日には宮崎に帰りますね。
なおや  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 09:13Comments(0)

2011年06月27日

短期間ボランティア

今回は、先日の報告会に参加された方が、2泊3日で休暇がとれて、飛行機の手配も自ら行うので被災地へボランティアに行きたいと相談を受けました。
後日、説明会などを行った後、被災地ボランティアに行ってもらった山田さんからレポートが届きましたので紹介します。

6月20日、7時35分の飛行機で、宮崎より石巻へ向かい、15時ちょうどに石巻駅へ到着。 
初めて降り立った石巻は、少し埃っぽく、まだまだ震災からの復興が始まったばかりである事をうかがわせます。
今回の活動は、NPOみやざき災害救援センター事務局長の小玉さんの仲介で、ベースキャンプ絆にお世話になる事になりました。
初めてボランティア活動に参加した私と妻が緊張する中、今回お世話になるベースキャンプ絆を拠点に現地でボランティア活動をしている、四万十塾のジョンさんが迎えに来てくれて、夕飯の炊き出しを行う予定の渡波中まで送ってくれました。夕飯の準備まで少し時間があったので、明日、髪を切る事になる湊中経由で、車を走らせてくれました。2,3分程走り、小高い丘を越えると、高く積まれたガレキの山が目に入ってきました。さらにその先、ガレキが撤去され、更地となった、かつての市街地(写真①)

や、魚が飛び跳ねる水溜りを通り、湊中へと到着しました。ここでは、毎日炊き出しが行われ、食事の後、被災者が落ち着ける様に、マッサージテント(写真②)

や手作りの図書館(写真③)

があり、皆がくつろげる工夫がしてありました。一通り説明を聞いたのち、湊中を後にし、湊小学校へと向かいます。湊小学校では大勢の方が避難生活を行っていると聞いていたのですが、この日は、被災者の方々のほとんどが松島の温泉へ行った為、少数の方だけしか残っていませんでした。そのため炊き出しを中止し、夕飯の準備をした後、散髪とマッサージをし、本日の活動を終え、ベースキャンプへ向かいました。(写真④)

夕方7時、専修大学にて、毎日「石巻災害復興支援協議会」が開かれており、各ボランティア団体の活動がぶつからない様に場所、時間、人数、問題点、今後やりたいことなどを報告、調整しています。この日は、一通り会議が終わった後、ハエ対策、衛生対策について情報を共有していました。(炊き出し場所では、常に100匹以上のハエが飛び交い、窓を開けることすらままならない状況です。梅雨明けが思いやられます。)
キャンプに戻り、明日の活動計画を決め、各部門のミーティングに参加し、初日を終えました。

6月21日
朝7時、本日の活動会議が行われ、各部門別に本日の活動予定を発表します。初めて参加する人や、まだ活動予定の決まって無い人は、ここでやりたい事を決めて活動します。
私は、小網倉浜でガレキ撤去作業、妻は湊中で炊き出しと散髪を行うことにし各自活動をしました。
小網倉浜では、現地の方に牡蠣の養殖に使うロープの回収を頼まれ、1日行いました。
小網倉浜は、震災前まで、牡蠣の養殖が盛んで良質の牡蠣が獲れていたそうです。(写真⑤)

湊中では、160名分の炊き出しを行い、その後3名の人達に散髪しました。告知が不徹底だった為少人数になりました。前もって告知をしておけば多数の方々に散髪ができたなぁと思うと残念です。(写真⑥)


6月22日
この日は、宮崎に帰るため、石巻駅近くで、午前中だけの活動になります。
旧市役所で、自衛隊が回収し、集められた写真(アルバム)を一枚づつ、洗浄し乾かすという作業が行われているのを知り、参加させていただきました。(写真⑦)


感想
今回の震災は世界的に見ても最大規模の災害だったにもかかわらず、復興に関わるボランティアの数が、阪神淡路大震災の1/6位しかいないと聞きます。東北という地理的な事情を考慮しても、あまりの数の少なさです。私は、この原因の一つに、メディアやネットを通じて、誤った情報が流れた事があると思っています。一時メディアを通じて流れた「被災地はボランティアで溢れている」情報や、震災当時「ボランティア」をネットで検索した際、体力に自信のない人は足手まといになるといった情報が出ていましたが、今現在、それは誤りです。ボランティアの数も、プロの土建屋の数ですらも全く足りていません。今は誰が行っても出来ることは必ずあります。
しかしながら、ボランティアに参加したくとも、現実に宮崎と東北は遠すぎるのも確かです。さらに、短期間の活動で終えるのはあまりにもったいない気がします。出来れば、長期間に渡って活動した方が、効率良く現地の役に立てます。そこで、NPOみやざき災害救援センターを通じて活動される事をお薦めします。一番のメリットは会員サポーター制度がある事です。そのため、サポートされる側は、参加費用が安く、仲間もいて安心して活動できるので、初めての方でも参加しやすいと思います。また、サポートする側も直接ボランティア活動家をサポートする事により、間接的にボランティアを行えるのもメリットです。
今回の震災は、不況から脱却中の日本を襲いました。この度の震災で道路や建物の破損などの直接被害だけで推計16.9兆円の被害がでています。(原発被害除く)このままでは、復興もままならず、ダラダラと時が過ぎて行くだけで、景気回復にも悪影響を及ぼすこと確実的と思われます。この国を通じて我々は繋がっています。同胞の不幸は自分の不幸に繋がっている事を思い出しましょう。そして、出来るだけ早く行動しましょう。気付いた時点で行動しましょう。
今回ボランティア活動を通じて同じ様な志を持つ仲間と出会えたこと、被災地で見聞きした事で気付いたことは、今後、私達の財産となる事でしょう。このような機会を設け、現地と繋いでくださったNPOみやざき災害救援センターの方々に感謝し、感想を終えます。
ありがとうございました。

以上  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 00:15Comments(2)

2011年06月16日

宮崎市内で報告会

この間、報告会が何度か行われてきたものを紹介します。
まず、6月15日 18:00〜 宮崎公立大学にて 参加者27人

この日は公立大学の学生が主催して招かれました
2週間前くらいに決めた事もあり参加者が多くはなかったですが、報告を聞いた学生が私たちも夏休みなどにボランティアに行きたいと9人登録し、感想もとても良かったです

この模様は初めてUstream.TVでインターネット生中継されました。
また、MiyazakiAudioVisualOfficeさんとテンダーさんの協力によりタイトルや報告者の名前もテロップで紹介され2カメラでの中継で大好評でした。最初の3分30秒だけ音声が送信されていなくて、チャンネルを変えられ視聴者が減ったのが残念でしたが、それでものべ58人に生で視聴していただきました
ありがとうございます
下記アドレスにアクセスしていただければ、録画されたものが見れますのでぜひご覧ください
http://www.ustream.tv/recorded/15393772


続きまして、6月10日 16:30〜 宮崎農業高校ボランティア部29人先生3人で32人参加

80分ほど報告と質疑が行われ、ぜひ現地に支援に行きたいと先生と生徒から熱いメッセージが寄せられました

6月12日 14:00〜 宮崎市民文化ホールにて 参加者33人
6人報告し質疑も多数寄せられ、とてもいい雰囲気で盛り上がりました

6月6日 12:00〜 公立大SOW LunchTime 報告会 15人参加
初めて聞く被災地の話に真剣に聞き入り、多くの質問も寄せられました

6月3日 宮崎市役所サシャ2度目の報告会10人

更に、5月19日 14:00〜 ライブビジネススクール講演 約40人参加

5月19日 宮崎大学機会力学研究室にて梶山望 報告会10人

5月16日 宮崎市役所 報告会15人

5月21日 サシャドイツ語講座でショート報告会15人

5月 ホテルメリージュにて佐藤報告 ?人

5月15日 13:00〜 市民文化ホール報告会 28人  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 09:15Comments(0)

2011年06月05日

NHK宮崎放送局で佐藤代表がスタジオ出演

NHKの視聴ありがとうございます

NHKの本番中
スタジオにて映像チェック中です


本番1時間前に到着
まず控え室にて打ち合わせ

アナウンサーの田中さんは大学時代 AKBにスカウトされたのを断ったそうです
正解だと思います
NHKで次期衆院選の総選挙を実況してください(笑)


打ち合わせ後スタジオへ

アナウンサーと話しながらアシスタントにピンマイクをセッティング
実はこの女性二人とも大塚中出身らしく佐藤さんの後輩にあたるんだって
盛り上がったけど、西高出身の田中さんは、さすが西高って感じでした


リハーサルのあと本番では何度か収録する中、4分間の尺だったものを、中身盛りだくさんで急きょ6分30秒に変更しました。
いいものはちゃんと伝えたい。そんなNHKNのスタッフの熱意が伝わりました。

ありがとうございます。


NHK6/7(火)(宮崎放送局)とテレビ朝日6/8(水)(全国版)で放送される予定です。ぜひチェックしてください。

NHK宮崎放送局で18:30〜はNPOみやざき災害救援センターの佐藤光輝代表がスタジオで4分間出演します。
聞き手は原口アナウンサーと女性アシスタントです。
映像著作権の問題がありネット上ではアップできませんので、ぜひご覧ください。

また、テレ朝は6月8日17:30〜
石巻市での女性ボランティアが被災地のお風呂を紹介する場面で「みやざき食堂」がちょっとだけ背景に映っている程度ですが、ぜひご覧ください。

いまリニューアル作業中ですが、ホームページもご覧ください
http://www.npomiyazaki.com/

下記日程の報告会もぜひ参加してください
6月12日 14:00〜 宮崎市文化ホール
6月18日 14:00〜 都城コミュニティーセンター
6月25日 14:00〜 日向市中央公民館  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 09:13Comments(0)

2011年05月29日

Before → After 校舎編 & みやざき食堂

選挙看板のリサイクルをBefore → Afterで見てみましょう。
これは、体育館でなく、校舎

元々職員室になっていた1階の部屋に津波で車が突っ込んで来てドアが大破しました。
そこにダンボールで応急処置をしていたのですが、雨が入ってきてダンボールの外側にブルーシートがかけられている状態でした。今週末には台風が接近するかも知れないとの情報もあり、早急に強化する必要がありました。
そこで、選挙看板のリサイクルが登場
普段は一戸建ての家をつくっている佐藤建設ですが、今回はボランティアと一緒に壁作り。これが、正確にメジャーして補強するための木材も打ち込み完璧に仕上げていく。

これがAfterです

これで週末の雨風は防げると大好評でした。
by Naoya


コージィ5日目
今日も午前中は湊小の体育館ドアの補修を行った。
湊小での作業も最終日で、作業自体もやりきることができたので良かったと思う。
午後からは、牡鹿半島の方に炊き出しに向かった。石巻から昨日の炊き出しにも来てくれていた、アッコさんが応援に駆けつけてくれた。アッコさんからはボランティアの問題点や考えなどを聞かせてもらい参考になった。ここでも宮崎牛と宮崎地鶏は、みんなに好評で喜んでもらえて嬉しく思う。今日は牡鹿半島の方で宿泊である。早いもので明日が支援活動としては最終日になるので、ゆっくり休んで明日に備えたい。


初めての牡鹿半島入りこの日は大原集会所で炊き出し

グッさんの
朝は早い、本日は四時十五分、でももう薄明るい、宮崎よりもやはり一時間くらいは違う。回りではまだイビキがひびいている。本日は体育館の鉄の扉の補修にチャレンジ、津波の重圧で内側に反り返ったままの2枚を元の姿にに戻すというもので、どこの学校の体育館にもありふれたもので、想像はつくと思うがとても重いものである。ほんまにこれが元通りになるんやろかと半信半疑だったが、それが皆の力で出来たのである。今回の選挙ボードと並ぶくらいの成果ではなかろうか? 夕方からは、牡鹿半島を東に走った大原地区にて焼き肉、地元の皆さんに喜んでいただいた他、兵庫組、高知組も来所、夜遅くまで盛り上がった。久々に高知弁も聞きながら、生活センター台所にてシュラフに沈み込んだ。 


こんなに、おいしい肉初めてだ〜

かっきー5日目
今日は朝からカワイ兄弟と体育館の作業をしました。校舎のドアの取り付けを含め、中途半端だった部分を含め最後まで行えました。さすが本職の作業で良い仕上がりになりました!
せっかく知り合え仲良く慣れたカワイさんたちとも今日でお別れ。別れは寂しいですね…
午後からは牡鹿半島に行って炊き出し作業をしました。
ここの地域は炊き出しの人があまり来られないとの事で料理を大変喜んでくれました。地元の人や神戸や新潟からきてるボランティアの人たちともたくさん話出来てすごく良い時間が過ごせました。
あしたはここでの作業。最後の作業になります。せいいっぱい頑張ります!!


この日行った牡鹿半島の大原地区は自衛隊の炊き出しなども届いておらず、毎日、おにぎりやパンやインスタントラーメンが届いていました。そんな大原地区の区長さんにも「久しぶりに暖かい夕食をみんなで食べれました。震災以来初めての肉で、地域のみんなの笑顔が集まるといいですね」と喜んでもらえました。
by Naoya  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 09:06Comments(3)

2011年05月26日

続:選挙看板リサイクル 2011.5.26.


カッキー(左)とコージー(右)は大工仕事をテキパキこなす

コージィ4日目
今日は午前午後と体育館と校舎側のドアの補修を行った。午前午後と連続で作業出来たので効率良く進んだと思う。
大工さんが中心での作業だったので、かなり良い仕上がりになった。被災者の方も喜んでくれているのでやりがいを感じる。
夕方の炊き出しでは、大工のカワイさん兄弟やチーム神戸の人たちも参加してくれて楽しい時間が過ごせました。なにより炊き出しを食べた人たちが笑顔になってくれるのが嬉しい。石巻の人たちとも、少しづつ繋がっていけてると実感出来ています。
今日は、湊小で仮設のお風呂に入らせてもらったので、とても気持ち良くて疲れも吹っ飛びました。やっぱりお風呂は有難い。明日からの作業も元気いっぱい頑張れそうです。

くりちゃん(サシャ)です。
26日。3回目のバーベキュー(いつもの宮崎牛と地鶏)を行いました。

今回の会場は、町の真ん中にあるライフハウスの下でした。和田さんというライフハウスのオーナーは、私の宮崎のサーファー仲間の友たちという繋がりがあり、バーベキューさせてもらいました。バーベキューの参加者は、和田さんが今住んでいる避難所の方々と、会場の近所の方等が来て、音楽を流しながら生き生きなパーティーのような雰囲気でした。被災者の皆さんは大変な苦労をするなかで、少しでも元気を与えることができて良かったです。
また続きに!


新燃岳の噴火で被災した高原町のキャベツも大人気

グッさんは
グッすり眠れました、久々に。本日は、民家のドロかきに行く予定だったのですが、長い待機中の後にキャンセルとなり、体育館の5つの大穴塞ぎの仕上げとなった。計画がなかなか予定通りにいかなかったり、変更になったりでせっかくの時間がムダになるのは残念である。自衛隊さんの昼食は楽しみだし美味しい。夕方からは、学校を右折して出て、次を左に曲がり、小さな橋を2つ渡ったところで焼き肉でした。夜は、学校に特設された「希望の湯」に入浴出来るとのことだったが、こちらにいる間は風呂には入らない覚悟と支度で来ていたので、歯磨きの後9時には早々と、マウスピースをくわえてシュラフへと潜り込んだ。昨年の四国お遍路さんで、いくら疲れても眠れないことは経験済みだったが、同じ場所での宿泊で慣れたのだろうか? でもどうやら場所替えみたいです。


てげうめ〜「みやざき食堂」は大好評

かっきー4日目
今日は朝から大工兄弟のカワイさん達と一緒に体育館と校舎壁の穴を選挙用パネルでうめていきました。
それまでビニールシートやコンパネ、段ボールなどで塞いでただけの壁だったので、被災者の方喜んでいただけました。
夕方からは近くで炊き出し。本日も宮崎牛と地鶏などを準備し大好評。みんな「おいしい、おいしい」と言って、何回もおかわりしていました。
今日は作業の中でも炊き出しのときでもたくさんのボランティアの方々とお話ができました。
全国各地からきていて、やっぱり「何かしたい」という思いの方々です。交流していき、ますます活動の意欲が強くなりました。
明日もみんなと一緒に頑張ります!


チーム宮崎に飛び入りボランティアもあり素敵な夕食でした  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 21:15Comments(0)

2011年05月25日

5/25 石巻市の床はがしと南三陸で「みやざき食堂」

文責:小玉直也 宮崎幸司 原口大輔 柿並興昌

〜なおや〜
この日は石巻市での床下にたまった泥を搬出するための床はがし
被災者の自宅までの移動は歩いていくか自転車でいくか
漂流物の釘などが出ていて毎日パンクが耐えないらしくパンク修理をし続けるボランティアもいる

サシャと私は昨日のバーベキューの片付けに別便
すると近所済んでいる60代の男性千葉さんが「家族3人でぜんぜん進まないからボランティアにお願いしたいのですが、どこに相談したらいいのですか?」自宅を見に行くと

てもボランティアの手に負えない状況で重機でひっぱりださないといけない感じでした

その後、南三陸町へ畳を届けた仮設住宅へ炊き出し
口蹄疫や鳥インフルエンザや新燃岳で被災した牛や地鶏やキャペツをもって、被災地から被災地へ「みやざき食堂」


くりちゃん(サシャ)です
最近経験した、感じたこと。

25日。初めて南三陸に入りました。町の一部は完全に津波に平らげられたところで、人の家は地盤まで流されました。男性の被災者の方が自宅の跡に連れてくれて、「ここは玄関、ここは階段だった」等説明しました。家族は無事だったけど、老人ホームの職場が流されて、ほとんどの利用者が亡くなりました。これから、新しい生活作りです。


コウジィ3日目
今日は朝、湊小避難所で生活されているおじいさんに震災当日の話を聞かせてもらった。地震の後、津波警報が出たので外に出たところ、最初はちょろちょろと流れてきた海水が気がつくと、身長以上の波となって押し寄せてきたそうです。たまたま家と家の間の狭い路地に入れたのでそこから屋根までよじ上り難を逃れることができたそうです。その後の光景は、どんどん車や瓦礫などが流されてきて悲惨な状況続いたといった話を聞かせてもらい津波の恐ろしさを改めて感じました。
作業としては、午前中は石巻で床下の土砂除去のための床板剥がし、午後からは南三陸町での炊き出しを行った。
午前中のお宅では、その家で生活されているので一階部分の復旧が必要だけれども、建築屋さんも手が回らないのでいつになるか分からないとのことでした。午前中だけの作業だったけど少しは役立てたような気がします。
午後南三陸町に入って見た光景は、瓦礫しか残っていないようなほんとに悲惨な状況でした。何年後、何十年後とこの状況を忘れないためにも少しでも多く被害箇所を残してほしいと思った。そして、多くの人にここに訪れてもらいたい。
まだ3日目なので、明日からもきあい(気愛)でやっていきたい。

ぐっさんの石巻レポート
本日はまず、避難所貸し出しサイクルにて、午前中作業のスタートです。今回のボランティアで、私が一番想像していた、民家床周りの作業です。 昨日のザ•タッチ兄の先導で現地到着、床板を外すと、やはり床下にはドロが堆積しぬかるんでいました。私たちは玄関脇のリビング約十畳分を剥がしたのですが、午後からの南三陸町遠征もあり、ドロの除去は後続部隊にタッチしました。自転車での往復は、途中ジャリ道、水没箇所ありのデコボコですごい砂煙り、おまけに信号機が機能してないところもあり、警察官が立っているという、短いながらも危険な道のりでした。今日の避難所での昼食は何やろかな? あー「綾小路きみまろ」でした。昨日は自衛隊の方々の炊き出しをお裾分けでいただきました。カレーライス、サラダ。焼き肉風、ヒジキ、ティラミスもあり、おまけはテイチクレコードの歌手でした。 今日はいただけなくて残念、てな思いで南三陸町へと出発。途中通行止めがあり迂回して、やっと現地入りすると目を覆うばかりの光景でした。架設の橋を渡りしばらく進むと、テレビでも再々紹介された南三陸町役場の骨組みが目に飛び込んできました。私には原爆ドームが連想されました。まさに水の爆弾、「水爆」です。周辺は、原爆投下直後の写真そのものです。 役場の骨組みに絡んでいる無数の漂流物は、限りない悲しみに感じさせました。バーベキュー開催場所付近も、仮設テント、にわか作りのお風呂と、まさに戦後でした。



かっきーです。
今日は朝から被災された方の家の床はがしに行きました。
自宅までは避難所で借りた自転車で移動しましたが、まだまだ手つかずの家も多く大変な状況がよく分かりました。そんな中でもコンビニが営業を再開してるのを見て着々と前へ進んでるんだなと感じたとこです。
作業は慣れないながらも行い、3時間ほどで完成!ご主人も喜んでられました。
ご主人は車で避難しようとしたところ渋滞だったため家に帰った途端に津波が襲ってきたそうです。
車に乗ってた人はそのまま流されてしまったとのことで、まさに紙一重だったとのことでした。

午後からは南三陸町へ炊き出しに行きましたが、途中車から見る景色は衝撃的。テレビで見たように家が丸ごと無くなり瓦礫だらけのところがいくつもありました。実際の状況をみると津波の怖さ、そこに住んでる人の悲惨さをより強く感じました。
しかし、炊き出しに行かせていただいた地域の人はみんなで協力し支えあいながら暮らしています。
自分も被災された方々が周りのために一生懸命動き回られている姿は、私たちが宮崎に戻っても見習っていかなければと思います。

明日は三日目。久しぶりの肉体労働で明日は筋肉痛かな…(もしくは明後日)と思いながらも、あと残り3日。頑張ります!  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:35Comments(0)

2011年05月24日

5月24日 選挙候補者ポスター掲示板リサイクル

文責:小玉直也 宮崎幸司 原口大輔 柿並興昌 サシャクリンガー

いよいよ選挙看板のリサイクル 〜なおや〜
石巻市湊小学校では津波で押し流されてきた車などが衝突して体育館の壁が崩壊してました。ゴールデンウィークの時には気づかなかったのですが、その崩壊した壁を段ボールやブルーシートで覆っていました。

そこにしっかり壁を作っていく。NPOみやざきSKC代表の佐藤さんが建設会社の社長なので、寸法を測って骨組みを作り完璧な仕上がりに。

NHKと毎日新聞の取材をうけ、NHK宮崎放送局と宮城放送局で紹介されました。
選挙看板のリサイクル。宮崎市で800枚なので全国では数十万枚の規模で廃棄処分されたもの。
現地ではベニア板一枚を手に入れるのに具材がなくて四苦八苦している。これをいい教訓にリサイクルをしていきたいものです。

その後、夕方から「みやざき食堂」被災地から被災地へを開催

湊小学校から車で南西に10分くらいの所に、電気、水道などのライフラインが全然きていない地域があり、そこに新潟の中越沖地震でもお世話になった、神戸ヒューマンシールドの吉村さんから応援要請があり、宮崎ハーブ牛、軍鶏の地鶏っこ、高原キャベツで炊き出し。被災地から被災地へ「みやざき食堂」

おいしい食材に舌つづみする被災者や全国からのボランティア

子どもたちとのふれあい、ギターで歌ってみんなで大合唱。
今日もいい交流ができました。
この神社の境内も津波で車や瓦礫で埋もれていたけど、全国からのボランティアがいっせいにクリーンアップ作戦をしていったそうです。約50人の炊き出しでしたが、笑顔あふれる夕食になりました。



被災地ボランティア1日目無事完了のグッさんです
やはり、初日から効率的な仕事運びは難しい、を実感。ただ、選挙看板が10枚ほどだけど、有効に使えたのはよかった。夕方からの第二部は、車で5分ほどの神社境内でのバーベキューだ。 看板作業でお世話になった、大工の棟梁と美容師の激似のザ•タッチもご一緒に。途中の道沿いは、目を疑うばかりの光景の連続だった。ガソリンスタンドにも車ではなく、家が入庫している有様だ。第二部で私にとって一番良かったのは、同郷広島出身の方も参加されている「広島風お好み焼き」ボランティアに出会えたことだった。その方は現在、神奈川県でお店をされており、明後日にこの学校の近くで、40枚お好み焼きを焼くことが決まったらしい、見てみたい。一応連絡先は交換。 
昨晩は、初日より眠れなかった。というのも、第二部で、ビールやチューハイ、コーヒー、フルーツポンチ、とすすめられ調子に乗っていただいたので、小便に5回ほど起きたこと。ちなみに、ポンチのほうはまだで、サービスエリアのウォシュレットで済ませてからはご無沙汰です。やはり、毎日食べている自家製ヨーグルトが食べられないのが一番きつい。きついと言えば、入浴できないこと、と思っていたが意外と凌げるものです。こまめに着替えたり、使い捨て体拭きタオルを使用、何よりこちらは、夕方からぐっと冷え込むのが、むさ苦しさを抑えてくれる。三日目の朝もやはり、裏のお寺の墓地で、車がお墓の上に乗っかっているのが気になる。「坂の上の雲」は好きだけど、墓参りの好きな私には、「墓の上の車」は早くなんとかしてあげたい気持ちである。  





コージィ2日目です。
今日は朝目覚めて体が多少痛んだ。音楽室で床に寝袋を敷いただけだったからだろう。やはり畳に布団を敷いて、ゆっくりと眠りたいと思った。昨日は暗くなってから到着したため、周りの景色が分からなかったけど、朝外を見るとお墓に車が何台も突っ込んでいて、まだ整備されてない場所もまだまだ有るのだと感じた。
今日は宮崎から持ってきた選挙用パネルが、体育館の壁の補修材料として使用された。今後もいろいろな用途で使用されれば、選挙用パネルのリサイクルが進んでいくと思うので、どんどん活用して欲しいと思う。
炊き出しを行った明神社付近は電気も水道も復旧されていない場所みたいで、瓦礫が山のように有り津波の脅威を感じさせられた。ここでは炊き出しに来られたおばちゃんが、夜はまだ被災直後が思い出されて眠れないけど、今日はたくさん元気を貰ったと言って笑顔で帰っていかれた事が、自分自身も元気になれてとても嬉しかった。





かっきーです。
今日は8時から作業を開始しました。
作業としては宮崎から持ってきた選挙用パネルを、壊れた体育館の壁の補修に使用するものでした。
愛知から来てるカワイさん兄弟のチームとも一緒に作業し8割方ぐらい完成。佐藤さんやカワイさん兄(大工さん)の本職の仕事に感心しながら手伝っていきました。
ちなみに弟さんは美容師で、避難所のかたの散髪をされてるそうです。
夕方からは近くの神社で宮崎牛や地鶏、キャベツなどを使って炊き出しを実施。近所の方や、周辺でボランティアに来られてる方々がたくさん来て下さいました。
まだまだ作業1日目。明日は被災した住宅の土砂撤去。午後からは南三陸町で炊き出しをする予定です。
頑張ります!




サシャですニックネームは、苗字のクリンガーからくりちゃんです。
グーテンタグ。独逸人宮崎チームメンバーのサシャです。
宮崎からわざわざ東北まで行って、ボランティア活動に宮崎の繋がりがあったほうがいいと思って、宮崎の美味しい食べ物持って行ってバーベキューしようと結論出して、昨日は初めての被災地応援バーベキューを実施しました。
現場は、瓦礫にど真ん中にある神社でした。そして料理所は大きな古い松のご神木に囲まれて、地獄の中の神聖なオアシスのような雰囲気でした。
参加者は近所の方もボランティアも含めて50人位、宮崎牛や地鶏は初めて食べた方が多くて、美味くて皆もぐもぐ食べていました。全員大喜び、感謝してくれた。宮崎チームの被災地応援計画大成功。
被災者とゆっくりと話す機会だったため、いろんな人の話が聞かせてもらいました。やっぱり、全体的な雰囲気が前向きで、ポジティブであっても、人それぞれは大変な思いでをしたでしょう。

とくに一人のおばさんの話がなかなかインパクトが強かったです。彼女は若いころブラジルに移住して15年間住んでいました。あるドイツ人に縁談されて、断ったけど、ずっとドイツに興味があったと言いました。日本に帰ったらずっと仕事をして、お金をためて、退職したらある友達とドイツに行く約束をしました。そろそろ行こうという頃になったら、震災が起きて、友達も夢も流されました。

ちなみに、自分のブログも書いていますので、ゴールデンウィークのボランティア経験を読んでください。ビデオもあります!

http://saschimi77.wordpress.com/

ドイツ語・日本語両方で書いているので、ドイツ語の勉強になりますよ!  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 22:21Comments(2)

2011年05月23日

無事到着しました!

文責;宮崎幸司 小玉直也 原口大輔 柿並興昌

初投稿のカッキーです
宮崎出発から28時間、石巻町の湊小学校に到着!皆さんお疲れさまでした。
運転以外はほぼ爆睡してたような気がします…
福島県に入ってからは道の凹凸が激しく、警察や自衛隊車両と頻繁にすれ違うようになりました。いよいよ被災地に近づいてきた実感がしてきました。 
23日、19時30分頃到着し食事にでかけましたがそのお店が昨日から営業を再開したと言われ復興が進んでいる事を感じました。
明日からは本格的な作業です。がんばるぞ!

初投稿のぐっさんです
最年長の55歳なので、なんとか皆さんの足を引っ張らないよう頑張ります。出身は広島なので、出発から広島宮島SAまでを含め運転にはかなり貢献出来たかな。福島に入ってから高速道の痛みが顕著でした。石巻に入ったのは18時半くらいだったのですが、すでに薄暗く、宮崎よりも一時間ほど時間がずれてる感じです。たくさんの皆さんの協力で、ここまで無事持ってこられた選挙看板をなんとか有効に使えればいいなと思いますが、ちょっと心配です。現地でのニーズが刻々と変化していくのは仕方のないことでしょう。宿泊先の湊小学校二階音楽室に入って、まず指摘されたことは大声で話さない事、ついつい、うっかりで気遣いを忘れてしまう、ここは被災者の方達の避難先なのだ。長旅の疲れもあった、早々と寝袋に潜り込んだ。 

なおやです
ゴールデンウィークに後ろ髪を引っ張られるように後にした石巻市立湊小学校に到着。
前回は30時間かかりましたが、今回は28時間で到着。しかも、事故防止のため運転免許取得して3年以上の人が運転するようにしていたので、前回は1900kmの70%くらいを運転しましたが、今回は20%くらいで助かりました。特にぐっさんありがとう。
約2週間ぶりですが、町中が見違えるように変化していました。津波で流された車や瓦礫が少しずつですが、撤去されている。
小学校のプールに2台の車が逆さまになって衝撃をうけましたが、これも撤去されていました。
すごい勢いで復興への一歩一歩がすすんでいると実感。
さ〜明日は朝一から選挙看板を再利用の作業です。
この日の石巻市湊小学校の音楽室は14人宿泊。全体のボラティアの数はゴールデンウィークと比べると随分少ないです
おやすみなさい。

手前カッキーと佐藤さん とブログ入力中のぐっさん


初投稿コージィです。
22日の夕方に宮崎県を出発し、トラックとバンの2台で6人が運転を交代しながら28時間かけてようやく宮城県石巻市に無事到着しました。宮崎を出発後、まずは高原町で新燃岳の噴火のため、わずかに無事だったキャベツの苗から立派に育ったおいしそうなキャベツを受け取り、以前は被災地だった高原町から、感謝の気持ちと一緒に宮城県まで運ばせてもらいました。
福島県に入ると地震の影響からか急に道路状況が悪くなり、警察、消防、自衛隊等の車両がぞくぞくと行き交うのを見て、被災地に来たのだと実感しました。しかし、石巻市に入り想像していたよりも瓦礫の状況などが片付いていた事には驚きました。
今日はとりあえず、長旅の疲れをとって明日からの作業に備えたいと思います。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:26Comments(0)

2011年05月23日

3度目の支援に出発!

3月22日出発で宮城県へ支援物資をもって出発しました。
出発式の模様がNHK18:45〜(宮崎版)、翌朝7:45〜(九州版)で放送予定です。
新聞は22日付けか23日付けの朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、西日本新聞、共同通信社が配信予定です。

昨日まで多くのボランティアのがんばりで押しピンやポスターが外された選挙の候補者掲示板をリサイクルするためトラックに積み込みました。


あいかわらず、照れくさそうにNHKのインタビューに答えるNPO代表の佐藤光輝
はきはきしゃべってよ〜


出発してから1時間、高原インターで降りて
新燃岳の噴火で被災したキャペツを200kgピックアップ
農家の藤井さんが精魂込めて作ったおいしそうなキャペツを購入してきました。
藤井さんは、お忙しいようで、紹介していただいた有田さんがもってきてくれました。

さ〜
いよいよ出発します。
文責:小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 12:28Comments(0)

2011年05月22日

みんなでボランティア

ホームページもご覧ください
http://www.npomiyazaki.com/

文責:小玉直也&平山果歩

この日は先のいっせい地方選挙で使用されたポスター掲示板を再利用するとりくみです。
現地の避難所では教室や体育館などに被災者が段ボール越しに身を寄せています。
前回ゴールデンウィークに使用済み看板のサンプルを持っていっていたのですが、現地のスタッフから段ボールの間仕切りではプライバシーやイビキに悩まされている人が多いのでぜひ使いたいということでした。
しかし、候補者ポスターや押しピンが刺さったままになっていたので、これを外す作業をすすめました。

鵬翔高校サッカー部から松崎監督、宮崎コーチ含む71人が参加

押しピンを丁寧に拾っていく、現地で子どもたちを含む被災者が怪我しないように


大塚サッカースクールから村山監督とチームの小学生15人と保護者も多数参加していただきました。

みんな一生懸命やってましたよ!


もくもくとはがしていく、その気持ちが石巻に届くように…

それにしても、これだけの人数がいると、みるみる進んでいく。


手前の2人は、まきのせさん夫婦。先週、夫婦で石巻に物資を届けて帰って来たばかりです。長い道のり、おつかれさまでした。無事故で良かったです。


ひらっちです!
5月22日から第3回目の現地支援活動部隊が出発するにあたって、宮崎県で作業をしました。
避難所の間仕切りとして使用する、選挙ポスター用の掲示板から画鋲やポスターを剥がしていく作業です。
報告会の日と同じことを大人数でやりました。
この日は、鵬翔高校のサッカー部や小学生のサッカーチームなど、計111名が集まりました。
人が多いと作業が早く進みます。
小学生も一生懸命画鋲を抜いていました。
こうやって、これからも地域の方と繋がっていきたいです。
協力してくださったみなさん、本当にありがとうございました!


薄暗くなるまで、がんばっていただき、ありがとうございました。
日曜日出発でこの看板を届けてきます。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 21:37Comments(0)

2011年05月20日

ボランティア募集のお知らせ


次回の被災地支援に22日出発します。
それに先駆けて、現地へ届ける物資の作業のボランティアを募集します。

先のいっせい地方選挙の際に使われた候補者掲示板用の看板が全国で数千万枚廃棄されてきました。
宮崎でも選挙看板が廃棄処分となったのですが、NPOみやざきSKC(災害救援センター)の代表佐藤の発案で処分せずに残してありました。
前回、宮城に支援に行った際にこの看板をサンプルで1枚持って行ったのですが、現地のボランティアセンターから避難所での間仕切りが段ボールになっていて、プライバシーやイビキになやまされている方が多く、この看板を活用し間仕切りに使いたいとの連絡がありました。

しかし、候補者のポスターが張られたままであったり、押しピンなどがあり、とてもこのままで持って行けるようなものでは無かったので、ポスターと押しピンをはがそうとなりました。
そこで、この間、報告会の後などに呼びかけ、連日高校生や大学生など市民も参加してやってきたのですが、なかなか膨大な量があり進まず、とりあえず明日の土曜日の17:00〜18:30にぜひボランティアをして頂きたいと思いお知らせしました。

場所は宮崎市北川内町中岡5001(佐藤建設作業所にて)
南宮崎駅から西に2kmほど行くと左手に「COOPかおる坂店」がありその次の信号を右折して数百メートルで「なごみうどん」があり、そこの100m先の右手上に佐藤建設の看板があるので、そこをめざしてください。

各自、軍手とマイナスドライバーを持ってきて頂けるとスムーズに進みますのでお願いします。
ご不明な方は下記まで連絡下さい
080-3371-8133 小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 08:47Comments(0)