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Posted by みやchan運営事務局 at

2011年07月31日

側溝を速攻に。。。

今日は一日中泥撤去をしていました。
3カ所回り、もうクタクタです。最後に行った現場では、側溝にコンクリートの蓋がついていてかなりの難敵でした。また、時間が迫っていたので『側溝を速攻に』というくだらないダジャレが飛び交う中での作業でした。

17時ジャストに作業が終了し、皆で歓喜のハイタッチ!近所の方々も応援してくれたので、とても力になりました!

今日で石巻に到着して8日目、、きつい作業が多い中、『もう帰りたい』『あーだるい』などと思ったことは1日もありません。
この地域の方々が前を向いているので、すごく力をくれます。元気になれます。寝る時も、また明日頑張ろうと思えます。
今まで、自分がどれだけ甘えていたかが分かります。

まだ途中ですが、というか中途半端すぎますが、川開きという祭りがあるのでこれで失礼します。
文責:林  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 18:24Comments(0)

2011年07月30日

体力の限界!

@仙台駅から「おはようございます!」

なぜ、仙台駅から朝の挨拶になったかというと、

昨日の朝、5時起床で福島から石巻市に移動。
NHKの中継が9:00からだったのですが、東北自動車道で事故が2件発生し大渋滞。石巻市に到着したのは8:40くらいだったものの中継の湊1丁目に到着したのは9:10
バタバタとNHKの中継をやるなか、正木は最終日のボランティアのヘドロ除去に参加。

そのあと、石巻市社会福祉協議会の専修大学ボランティアセンターで手続きを済ませ、最終日だった正木の希望で石巻市民病院を訪れました。
その後、寄り道をしながら、仙台駅に到着して正木が隣でがんばってブログの記事を書いてました
私は、体力の限界で仙台駅前でハザードをつけて仮眠

正木がバスが来るので帰ります!
という声が少し聞こえたような……

目が覚めたら仙台駅で朝の5時


おもわず、おはようございますと記事を書いてました。

今日は南三陸の祭りに顔出して、石巻市経由で福島に戻ります。

文責:小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 05:46Comments(0)

2011年07月29日

石巻最終日

文責:正木亮多

今日は朝から石巻市湊小学校に避難している鈴木さん宅でNHK宮崎へのSkype中継がありました。現地に入っているボランティアがSkypeを使ってビデオ通話で出演するって感じです。

中継は9時からということでしたが9時の時点ではまだ現場に到着しておらず、車で移動中。いわゆる遅刻ってやつですタラーッ

移動中の車の中から街の様子をNHKに配信しながらの中継スタートとなりました。NHKのキャスターさんも珍しい映像だと驚いていましたワーイ

少し遅れて鈴木さん宅から中継が始まりました。出演は小玉さん。僕はカメラを回していました。鈴木さんのの家は一階の屋根のすぐ下まで水が押し寄せてきて、凍えそうになりながら震災があった夜を屋根の上で過ごしたと話してくださいました。




その後は側溝のヘドロかきをしている仲間に混じって汗を流しました。
現場は民家が多く立ち並ぶ住宅地の道路で、近所の方が様子を見に来てくださったり、知恵を貸してくださったり、差し入れを頂いたりで楽しみながらヘドロかきができました。


作業は午前までで抜けさせていただきました。

午後からは帰る準備をしました。

石巻を出る前に、石巻市立病院に寄ってきました。この病院は海のすぐ近くに建っています。




海に近い周辺の地域では道路が冠水しています。地盤沈下のためです。




満潮時はや大潮のときは道路が一本なくなってしまうぐらい冠水して、住民のかたは陸の孤島に取り残されるか、大きく回り道をしなければならないという状況でした。上の写真は強硬突破している様子です。

石巻市立病院では二階の床下すぐまで津波が押し寄せてきました。





............以上書きかけですがアップします。
今から夜行バスに乗って帰ります!もうバスが来てしまったので!


  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:47Comments(0)

2011年07月28日

写真ありませんが。。。

今日は昨日に引き続き、あるお宅のお手伝い。

昨日と今日で床板を剥がし、床下の泥をかきだしました。1階部分が居酒屋になっており、業務用の巨大な冷蔵庫が傾いていました。
その巨大冷蔵庫をピカピカに拭き上げ、また使えそうな状態に。(写真を撮ってビフォア アフターすれば良かったですね。。)
建物内の泥は取り除きやすいのですが、側溝の泥は石も混じっていてかなり時間がかかりました。

石巻に到着して今日で5日目になりますが、1日1日がとても濃く、かなり勉強になります。内容を説明すると一ヶ月ほどかかるので省きますね。

約10日間の滞在ですが、4日目にして早くも3キロも体重が落ちました。延岡に帰るまであとどれだけ減るかが楽しみー。

文責:林  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 18:11Comments(0)

2011年07月27日

宮城県石巻市から

文責:正木亮多
今日はみやざきチームは別行動。

僕の方はJustinとDoredさんとSonnyの4人で依頼者の方の家周囲にある側溝掃除、残り林を含む4人は家の中の泥かき(多分)。

なんで僕がヨコモジだらけな人たちに囲まれているんでしょうね笑い

さらに今日は神奈川から来たボランティア34人も加わり、二手に分かれて常駐組(僕たち)がリーダーとなりました。

僕たちの方は側溝の泥かきです。
側溝の中には土やヘドロが溜まっており、異臭を放っています(これがまた臭い!)。4ヶ月以上たった今も手つかずで残っているヘドロはたくさんあり、この町が奇麗になるのにあと何年かかるのだろうと思いました。

依頼者の方に現場を見ながら側溝の泥かきを頼まれたときは、果たして今日中に終わるのだろうかと気が遠くなっていたのですが、やっぱり人数がいると仕事が早い!



予定よりも数時間早く終わりましたチョキ

今日はチームのみんなで民間でやってる温泉にはいりに行きまーすメロメロ救援物資で届いたけど余っている卵の使い道を考えながらゆっくりお湯に浸かることになるでしょうワーイ  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 18:05Comments(0)

2011年07月27日

福島市民の必死の叫び

場所は、福島駅横のコラッセふくしまにて7月19日に「政府交渉 in 福島」と題して行われた、福島市民と政府関係者との交渉。

住民との交渉テーブルについたのは、写真左から
(独)放射線医学総合研究所:山田裕司 文部科学省原子力安全課:鍋倉幸雄 原子力災害現地対策本部室長:佐藤暁 原子力災害現地対策本部総括班:原昭吾 原子力安全委員会:生駒豊 原子力災害現地対策本部住民支援班:新保昌人 さんら

行政側の説明は文章を読みながら、「直ちに人体に影響がある数値ではありません」などのらりくらり説明。

そんな中、必死の訴えが続く。

9歳と1歳2ヶ月の子どもがいるなか、私は普通の生活をしたいだけなんです。不安で不安でしょうがなくて、子育てがつらい、危険だから家にいればとあったけど、子どもの成長過程の中で花を摘んだり虫を捕ったり太陽を浴びながら成長して行くのがどれだけ重要かわかりますか?子どもに普通に生活させられない。私の家も毎月10万円の住宅ローンが残っています。避難したくても迷う。主人は福島に残って仕事をして私たちを避難の資金を作るからと。住宅ローンはどうするって主人に聞くと「俺が死んだら保険金が入るから、それで何とかなる」うちの旦那は私と子どもを守るために命をかけてる。私の妹も結婚前で避難をするか迷っている。元気な子どもを産み育てるためにも、避難を考えていたが、いま交際している人を残して避難できない。不安でたまらないと悩み迷う。

高校の先生は、子どもたちの事を思い、登下校の際はマスクをちゃんとつけようと呼びかけ続けると

校長室に呼ばれるようになり、子ども達の不安をあおるのはやめろと連日パワハラを受け、今月退職する事に

すべては紹介できませんが、続々と必死の訴えが
話を聞きながら、涙があふれとまりません

その訴えに対して、「避難したい人は自分で判断して避難したらいいんです」
と淡々と対応する担当者に、会場から非難の声が

本当に福島で求められている物は多岐にわたり、深刻な実態と放射能への知識と対応が行政も住民もバラツキがあるうように思われ、あらためて「想定外」という言葉で言い逃れできないと痛感しました。

ひとたび事故が起きれば、人体にも動植物にも地球環境にも多大な影響を与える原子力発電所を管理する側は、あらゆる想定に対応する能力がないと管理すべきでないものだと。

いや、あらゆる事故に対応できる事ができるわけが無いのだから、あらためて原子力エネルギーに国民もメディアも政府も企業も向き合い、エネルギーについて考えていかないといけません。

文責:小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:49Comments(0)

2011年07月27日

支援物資配布と被災地調査!

文責:林晃太

今日は午前中に支援物資配布のお手伝いをして、午後からは周辺地域の被災地調査に行ってきました。
ボランティア仲間4人で、女川、雄勝を見て回ってきました。

寝泊まりをさせていただいてる湊小学校を出発し、約20分後...急に風景が変わったと思ったら、家の基礎だけが残った開けた場所に到着しました。4人とも言葉を失い、呆然とその風景を眺めていました。
横倒しになった建物、骨組みだけが残った建物、人が住めそうな建物は1つもありませんでした。



その後また車を走らせ雄勝へ....海沿いの山道を走っていくと、これまた信じられない光景を目にしました。
雄勝公民館の屋上部分にバスが乗っかってました。この高さまで津波が達したのかと想像するだけで恐ろしくなりました。



雄勝公民館の周辺は瓦礫がまだ残っていて、唖然としてしまう光景ばかりでしたが、足下を見るとピンクの綺麗な花が咲いていて少し元気を分けてもらいました。



石巻に来てまだ数日しか経っていませんが、避難所で生活されている方々、地域住民の方々に元気と勇気をたくさん頂いています。
残り少ない滞在生活になりますが、限りある時間の中で、自分が出来ることを精一杯やってきたいと思います。
本日は画像掲載がうまくいかず、見にくい状態となっております。申し訳ございません。
以上:林晃太



以下、文責:正木亮多

午後11時からチーム神戸の大西さんの車で被害にあった地域をみてまわることに。

湊地区から出てまずは女川へ。

女川の地形は典型的な三角州です。元々河川の流れによって出来た土地なので(多分ですよ)海抜も低く、被害も甚大でした。

被害状況を記録に残そうとEOSkissの電源を入れたらなんとバッテリー切れの表示。
写真は林さんに任せます….m(_ _)m

その後は雄勝に向かいます。

女川、雄勝、両地区ともまともな家は一つとして残されていませんでした。
家が建ち並び、商店があり、漁業で栄えている風景を思い浮かべると、被災後とのギャップに思わず言葉を失いました。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 00:12Comments(0)

2011年07月25日

救援物資配布


文責:正木亮多

6時半起床。起きてから一分後にはラジオ体操している自分。



もちろん体が動くわけありません。隣の朝野さんにワンテンポ遅れてのラジオ体操でした!

今日一日は小学校から出て行かずに作業しました。作業内容は救援物資配布とそのための準備。




最初の救援物資配布では被災者に好きな物を持っていってもらうというシステム。それをボランティアが主になって動いて物資を配布するというシステムに変えたそう。でもそのために、ボランティアだけがずっと動いて被災者は何もせずにじっと待っているだけになってしまった。

そこを物資を配布していくのは被災者から募ったスタッフで、ボランティアはその準備やサポートだけと決めたそうです。それが大成功で、ピリピリしていた雰囲気は全くなくなり、穏やかに配布を終えることができたそうです。今日はこのシステムの2回目でした。



夕食後は中学生と一緒に勉強会。

当初は全く予定のなかったことですが、急遽家庭教師をすることになり、中2の男の子二人と夏休みの宿題をしました。お母さんには1時間程度でお願いしますねと言われましたが、中2の男の子が初対面の人と進んで一緒に勉強なんかするわけありませんよね(笑)。

勉強は10分ぐらいで終わってあとはずっとおしゃべりを楽しんでいました。少しでも壁を取り除けたらいいんだけどなあ。実際、僕は泥かきや瓦礫撤去などの力仕事より被災者と話しているほうが好きです。得意分野を生かして適材適所。多分明日もおんなじことしてると思います。


中学生と勉強会(勉強しているかどうかは置いといて)中に2回、震度3以上の揺れがありました。僕はほんまにめっちゃくちゃ怖かったです。避難所の人たちが怪我しないか、津波がまた来ないか、建物が崩壊しないか、そんなことが何回も頭の中を駆け巡りました。

ここの人たちはほぼ毎日地震と付き合っているんですよね。中2の子たちはまったく怖くなんかないと言っていました。強がっているのかな、本当にそう思っているのかな。

ん〜深いこと考えるのは明日にしよう!明日はOFFらしいのでこの辺の地域を見て回ることにします。車をゲットできれば車で、無理なら自転車で!

おやすみなさ〜い

正木亮多
  


Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:55Comments(0)

2011年07月24日

二人石巻市到着

投稿者:正木亮多

7月22日の夕方、宮崎を出発してから約1日と半日。24日午前、石巻に到着しました。



震災から約4ヶ月たった今も警察が信号が津波で壊れてしまったところでは、手信号で交通整理をしていました。



今日見かけたのは愛知県警。昨日は警視庁が来ていたそうです。4ヶ月間も毎日休まず交代で手信号を続けていると考えると本当に頭が下がります。

みなと小学校の校庭内にボランティアの本部があります。僕たち二人はまずここに行って側溝の泥かきの仕事を受けました。

たった数時間働いただけですが、足腰がもうパンパンガーンやる気はあるのになかなか体がついていかないですね〜ガーン

もうフラフラになりながら泥かきの作業を終えました。




車で被害に会った地域を見て回りました。
ぼく個人の印象としては、思っていたよりも家や工場などの瓦礫が片付いているなと感じました。車が通る道路は全く支障がない程度に片付いていました。ただ、大きな瓦礫は片付いていますが、側溝や家の中など細かいところにはまだまだボランティアの人出が必要だと思います。

ぼくたち二人だけでは小さな力しかありませんが、ほかのボランティアの人たちと力を合わせて、復興への着実にすすんで行けたら!と思います。

作業後は海上自衛隊が設置した簡易銭湯に行きました。



明々後日27日後に撤退(戦場でもないのに撤退という言葉が正しいのか)すると聞き、地元の方々がこれからどうしようと困っておられました。みなと小学校に設置している銭湯(希望の湯)はみなと小学校が避難所である限り続ける方針のようです。

明日からもよく働き、よく学び(こっちのほうが主)、よく遊ぼう(小学生と!)と思います。

眠い〜〜おつかれさまでした〜
以上文責;正木りょうた

以下文責;林こうた
2011.7.24         
宮崎からフェリーで大阪へ、そして夜行バスで仙台駅に到着しました。
そこから高速バスで石巻駅に到着して、事務局長の小玉さんが迎えにきました。

被災された水野さんと鈴木さんのご自宅を訪問させていただきました。
水野さんのご自宅は1階のほとんどが浸水しており、浸水した壁をはがす作業をされていました。
鈴木さんのご自宅も1階が浸水し、津波が迫ってきたときは2階に避難していたそうです。
被災された当時は、家の前の道路が流された家で埋め尽くされていたようです。
その中、わずかな隙間を通り抜けて避難所まで辿り着いたとおっしゃっていました。
鈴木さんの自宅では床屋を営んでおり、訪問させていただいた時はお客さんがいらしてました。被災されてから営業を再開されるまでの間、商売道具であるハサミを探すことから始め、ドロをかき出し、窓を綺麗に磨くなど順を追って再開までたどりついたようです。

鈴木さん宅で昼食を済ませたあと、避難所になっている湊小学校へ向かいました。
そこでは既に多くのボランティアの方々が活動をしており、海外から来られてる方も多かったようです。
昼過ぎに活動場所へ出向き、ドロの撤去作業をしました。ドロの中には津波によって打ち上げられた魚も混じっており、その地区全体から魚の腐ったような臭いがしていました。

今日初めて自分の目で被災された地を見ましたが、ニュースで観たときよりも道路が綺麗になっていることに驚きました。それと同時に、家の2階部分まで浸水した跡をみてさらに驚きました。道路は綺麗になってきてはいますが、復興まではまだまだです。これからも多くのボランティアを必要としていくと思います。多くの方々に協力して頂けるよう、たくさんのひとたちに今日感じたこと、これから感じることを伝えていきたいと感じました。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 23:36Comments(0)

2011年07月21日

福島大学の教授らの除染活動をサポート

この間、福島県内を中心に大学や公共施設でのシンポジュウムや勉強会に参加してきて、なかなかブログにアップできていませんが、取り急ぎ福島大学、京都精華大学、同志社大学の教授らに福島市民が共同で除染活動を今週からはじめました。
私も勉強しながら実践していくという事も兼ねて一緒に協力しています。


まずは、モデル1として福島市内の住宅地で調査実践
家の前のアスファルトや駐車場のコンクリートや庭などに分けて除染前と除染後の数値を計測していきました。写真は玄関前のアスファルトで実施
この日は、除染活動初日という事もありテレビ局やフリーランスの方などの取材もありました。


そのあと庭を除染前測定し草を刈り取る作業
手前が左から福島大学荒木田准教授、JIMnet佐藤事務局長、福島大学中里見教授。奥がTBSサンデーモーニングスタッフ今週の日曜日の朝は要チェック


コンクリートの上は農業用ネットに付着するように液体を塗り表面をはぎ取る作業。液体の種類を変えながら一番効果的に除染できるものを検証中
右手前が佐藤さん、右奥が京都精華大学細川教授


コンクリートをはがした後で放射線量を計測中

翌日はリンゴ畑やナシ畑をもつ農家の大内果樹園をたずね、リンゴの木の下を検証

写真にある2m×4mくらいの草を刈り表土を除去する
1.8マイクロシーベルトだったのが0.6マイクロシーベルトまで減少
ただし、集めた草を土嚢袋に圧縮すると4.3マイクロシーベルトとホットスポットになってしまう。
この放射線量の高い草や土を東京電力が引き取ってもらえないのであろうか

ここは大内さんの屋根の水が集約されている場所
大内さん宅での一番のホットスポットのようですが、とても近くに寄るべきでない数値が計測され写真にあるように30.99マイクロシーベルト。前回のブログで紹介したCPM計測が飯館村の610の約2倍が計測され1170CPM急きょビニールを交換し手袋を交換し、たびたび緊迫した状況に直面する


この日は計測班にまわるJIMnet佐藤さん(左)と同志社大学和田教授(右)
和田教授はとてもユーモラスのある一面と、子ども達を本気で放射能から守ろうと政府交渉で涙を流しながら訴えるヒーロー的一面を持ち合わせる後日談がありますが、ここでは省略します。

2日間の除染活動に合流して
とにかく、初日は快晴ということもあり、佐藤さんも私も日焼けをしながら、Tシャツを何度も着替えながらと、かなりの体力作業
集めた草や土をどう処分するのかも課題は山積しているが、知恵を絞って東京電力や東京都、政府にも提案して行く必要があると感じました。
重ねて感じたのが、放射線を除染したときに集められた草や土が放射線量は1.8μSv/hのままと思っていたが、2.3倍の4.3μSv/hに上昇した。
つまり、県当局が推奨する高圧洗浄では新たなホットスポットが生まれ、そこで子ども達が被ばくする事になる。

そして、どこが放射能数値が高いかは計測しないとわからず、ホットスポットになっている近くを小学生が遊んでいたり、通学したり。
避難するかどうかは市民が判断する事だが、子ども達がここに居続ける事のリスクを早く市民に伝え判断材料の一つにしなければ。

今日話した別のおばあちゃんは、見えないし臭わないので知らなければ普通に生活できる。しかし、知ったら怖くなる。避難した方がいいの?2才の孫は大丈夫?いずれ寿命が来るけどガンで痛い思いをしながら闘病生活は嫌だ!東電は保証してくれるの?
40年前に酒を飲みながら「福島もやられっぞ~」って冗談言ってたけど•••
質問が矢継ぎ早に寄せられる。

喫緊の課題が山積している福島でした
文責:小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:55Comments(2)

2011年07月17日

いよいよ福島入り!

東日本大震災の被害が甚大だった、岩手、宮城、福島の東北3県のなかでも支援が最も少ない福島県。
放射能の影響があり、支援に入っているボランティアの数もNGOやNPOの団体数も極端に少ない。

これまでイラクで劣化ウラン弾の被害にあった子どもたちを支援して来たJIMnetの佐藤真紀さんと石巻で再会。JIMnetの応援要請に応えて福島支援を開始します。

放射能という見えない、臭わない、痛みがないもの。
初めての福島入りに緊張感をもって車を走らせた。



この放射能計測器はベクレルやマイクロシーベルトを直接計測する物ではなく、放射能の一定の濃度をカウントしていき、一分間にどれぐらい計測できるかを見てCPM(カウント•パー•ミニッツ)を計測していきます。

東京で15cpm~20cpmだった計測器が東北道を北上する中、少しずつ上がり始める。
このサービスエリアでは30cpmしかし、隣接する公園のベンチの上で計測すると62cpmで東京の約3倍に上がる。



郡山JCTジャンクション付近を走行中の車の中で75cpm車外はもっと高いことが想像できる

mg

福島のPAパーキングエリア近くでは111cpmを計測し徐々に緊張感が高まる

このあと福島市に到着し
福島県庁の災害対策本部で情報収集し
福島大学ボランティアセンターでサマーキャンプの概要などを
鈴木教授と4年生の航くんと打ち合わせをしてきました(写真)



放射能の数値は東京の5倍前後で計測され、マスクをして移動するよう心がけていましたが、福島大学でマスクをしている人がほとんど見当たらず、4ヶ月の間に慣れてしまい危機感が薄れている状況に驚きました。

文責:なおや  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 21:28Comments(0)

2011年07月15日

灼熱の石巻

この日は日赤の臨時診療所を紹介します。
石巻市立湊小学校で避難している方は震災当初の1400人から月日とともに少しずつ減少し、先月から仮設住宅への入居も進みいよいよ200人をきってきました。

そんな中、2階の家庭科室で数ヶ月間臨時診療所が運営されていて話を聞きました。
交代制で全国の病院から応援に駆けつけ、この日は福井大学病院からドクター2人と看護士2人ほか1人で診療にあたる。


私たちが南三陸町や石巻市で取り組んで来たボランティアの内容を話すと、医療行為以外の話があまり聞けないらしく興味津々で耳を傾けてもらいました。

私事ですが、1年半まえの新型インフルエンザが猛威を震い国内では200名以上、私の住んでいる宮崎でも5名の方が命を落としました。
その際、私も新型インフルエンザから肺炎が悪化していき43度の熱がつづきました。

救急車で国立東病院に運ばれたものの数値が悪化して、3時間後に再び救急車で宮崎大学附属病院ICUに運ばれる。
そこから3週間意識不明でドクターが家族全員呼び年末に「直也さんはステロイドを投与しても反応無く数値が悪化の一途をたどっているので、あと数日の命でしょう。ご家族は覚悟してください」と告げられた。



そこから奇跡的に生き返り今日に至るのですが、その宮崎大学病院から石巻市湊小学校へメッセージが届いていて、苦しかったリハビリの日々を思い出し、かろうじて生き返った私が、被災地で大学病院からのメッセージを一つひとつ読みながら、また涙がとまらない。


この日は灼熱の太陽が照りつけ、熱中症に気をつけるよう医療従事者にもほどこされる。
体育館で夕食のみそ汁を作っていた方達が熱中症対策で水を浴びていた。


彼はパキスタンから来たアジス
前回来た時もいたので、結構長く張り付いている。



そして先週誕生日だった、りょうさんも屋外シャワーを待ち受けていた。  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 02:16Comments(0)

2011年07月14日

石巻市湊1丁目の鈴木理容

湊小学校に避難中の鈴木さんを紹介します。
こないだ報告会に来てもらったり、インターネット生放送をご覧になった方はご存知かもしれませんが、湊1丁目で理容業を営んでいた鈴木さんです。
もし報告会をご覧になりたい場合は、下記ホームページから右上の「生放送および録画を見る」をクリックしてもらえればいつでもご覧になりますよ。
http://www.npomiyazaki.com
湊小学校から歩いて5分くらいの位置で理容業を営む鈴木さん
写真の場所で理容業を営んでいました。しかし天井まで津波が押し寄せ、写真の奥さんと2階に避難して難を逃れました。
近所の人達からの希望が多く理容業を仮オープンしたものの、天井がはがれたままで痛々しい傷跡が•••

この日はたまたま、以前の常連さんが来て「オープンするのを待っていたよ」って震災当時の状況をお互い語りあいながら涙する場面もあり憩いの場がまた一つ増えたように感じました。
写真の時計は震災直後の津波が来た時間で止まったのでしょう。

こちらの写真は白い壁に津波のあとがうっすら残っていました
鈴木さん宅から数分行くと中州がありそこで指差し説明する

ん??
なにがあるのか遠目にわからない

近くまで行くと自由の女神
腹部が損傷し甚大な被害をうけてるが倒れず立ち続ける
石巻も津波で甚大な被害を受ける中、一人ひとりが必死で立ち続け前に向いて歩き始めているそんなシンボルに重ねてまた涙する

建物などと違って電柱は抵抗を受けにくいのに根元から簡単に折れ曲がっている
人間が10人で押しても20人で押しても、このようにはならない。津波のエネルギーの大きさをまた痛感する。

この鈴木さんが語った湊小学校の3日間は涙なしには聞けない話です。
湊小学校に避難した1400人、最初の2日は食料も飲料もなく、ペットボトルを見つけ紙コップに1cmずつ分け与え必死で励まし合ったが救援物資が届かない
子どもや老人から衰弱していく
老人が昔わき水が出ていた話をしてその場所を男性が決死隊をつくり探しにいく
ヘドロを分け、遺体を分け、瓦礫をわけながら到着した所で水が湧いていた
ペットボトルに水を補給しながら、
これでまだ1400人死ななくてもいい。
助かるかもしれない。

そのときの状況を想像して、また涙する。
みなさん。忘れないで。
被災地では、まだまだ必死で生きているんです。

宮崎からもボランティアを送り出しているので、ぜひホームページの活動支援金のご協力をよろしくお願いします。

文責:なおや  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:06Comments(0)

2011年07月11日

続:市町村合併の弊害をうけた雄勝町

この日、案内してくれたのは雄勝町で震災前日まで漁師をしていた早坂さん。
3月11日の津波で所有していた漁船2艘を失い、現在石巻市大原地区に建設された仮設住宅に避難中です。前日、山形からの希望の湯で一緒になり意気投合、そのあと一緒に夕食を食べて、翌朝から早坂さんが住んでいた町を案内してもらえることに。

そこに私の家があったけど流されてしまった
地震のあとみんなで声をかけて逃げろ逃げろと声かけ、この丘に上がった
目の前で自宅が流されていったんだ〜
自分の家だけでなく、周辺の家がみんなながされ、波がきたときはモコモコと右の方に上がっていき、引き波ではドーッと音を立ててすごい勢いで海の方に左へ流れていったかと思えば、次の波でまた右へ左へと繰り返しながら辛かったです。
今度は高い所に建てたいケド、土地も少ないし、みんな高い所がいいって言っているかなね。

早坂さん宅跡地右手前の陰になっている所に家があったそうです。
仏壇も何もかにも流されて…

前記事で投稿した通り平成の大合併で石巻市に統合された雄勝町は支援の手がなかなか届かない。

この日は雄勝町で漁師をやっている中里さん(51)宅にうかがう。
この日は男たちが津波に負けなかった天然ワカメを収穫し、女たちがそれを出荷できるように作業する。ちょうど漁師町の女性たちの笑顔と話が聞けたので、写真を紹介します。
  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 13:36Comments(0)

2011年07月10日

石巻市は一歩ずつ前へ!

3度目の石巻市
被災地での復興が少しずつ変わっていく
国道沿いのミスタードーナツは未だ閉店したままの状態、その信号を右折すると驚く光景が目に飛び込む。
消えたままだった信号が点灯していた。その横の石巻郵便局も閉店したままだったが、日曜日なのに中の電気がついていて仕分け作業をしている。
100m進むと100円均一のSeriaが今日震災から115日ぶりにオープンでにぎわっていた。
子どもを連れた30代女性に聞くと「被災地の中で少しずつ身近なものが買える店が復活すると助かります」

向かいのセブンイレブンもずっと閉店したままだったが、オープンしている。
少しずつだが、復興の灯りがともっていく。
しかし、あと200m進むとあいかわらず、信号が消えたまま警察官が4ヶ月目も手信号で頑張っていた。


翌朝、仮設住宅で生活している早坂さんの案内で雄勝町へ
ここは、市町村合併の弊害が如実に出ていて復興にまだまだ時間がかかる様子だ。
石巻市役所から2時間ほど走ったところに早坂さんの自宅はある。
もともとは雄勝町役場があったのだが、合併したので石巻市役所に統合される。
雄勝町役場前の救急車

元役場周辺はまだまだ復興に時間がかかりそう。
もし、合併していなければ、雄勝町の復興はここが起点になり役場周辺にボランティアセンターが立ち上がり、雄勝町に多くのボランティアが派遣されていくんだろうなあと感じる。
石巻市からの距離があるが、合併したので石巻市社協ボランティアセンターから派遣される事になる。

消防車の後ろが元雄勝町役場
この役場で以前まで働いていた中里さんに話を聞いた
「この周辺でも多くの人が流されなくなってしまった。津波警報は出されていたけど、あんなに大きな津波はだれも予想しなかった。もう少し警戒しておけば助けられた命は多かったと思う。私の家は流されたけど、女房は警報に気づき裏の山に必死に上っていって助かった」

写真は中里さん隣の家、中里さんの家は跡形も無く土台だけ残されていました


市町村合併の弊害と津波の危険性への意識をあらためて感じました。

文責小玉直也  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 07:25Comments(0)

2011年07月09日

7月3日 小玉直也3度目の石巻市到着

3.11の大震災直後、配信されたショッキングな映像を宮崎で見ながら、なにか自分にできる事はないか
そう問い続けて、一度は仕事の都合をつけて支援に入ろうと思ってた。
ゴールデンウィークに駆けつけ散々たる状況。

仕事も職場もうばわれ、購入したばかりのノーンが残ったマイカーが津波で流されどこにあるかもわからず、家が流され、最愛の家族や友人知人が奪われた方々の涙を目の当たりにした。
一度だけの支援じゃ、どうにもこうにもならない。と2度目は5月22日から1週間。

そこであらためて涙する自分と向き合い。
今回、意を決して仕事を退職し、3度目の被災地入りは約100日。
私が無くすのは仕事だけ。
車も家も家族も残されている。
人生長いからなんとかなる。上を向いて前向きにあるいていこう。

中越沖地震でボランティアに駆けつけ柏崎から帰って始めた佐川急便も3年お世話になりました。


あとは、撮影の仕事もウェディングなどを別のカメラマンにお願いして、いってきます。
NPOみやざき災害救援センターの佐藤代表の妹さんのウエディングの撮影で10月23日には宮崎に帰りますね。
なおや  

Posted by 東日本大震災支援fromMiyazaki at 09:13Comments(0)